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ジョブ型社会とメンバーシップ型社会(濱口 桂一郎『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす』)

日本とアメリカの働き方について、留学中にいろいろな方にお話を伺い、日本の雇用の問題は新卒採用から企業の評価育成制度まで非常に体系的な問題なのだろうなという感想を持ちました。自分が伺ってきた断片的な話を自分なりの言葉で表現したのが前日のエントリーですが、それをより専門的な知見に基づいて明確に分析されているのがこの本です。(先日入手し、今日読みました。もっと早く読みたかった)

雇用に関する本にはいくつか目を通しましたが、大学教育、新卒採用、社内育成、評価昇進、中途採用、定年と雇用に関連するトピックについて、これらのトピックの違いがシステムの違いに起因していることを、欧米の「ジョブ型」と日本の「メンバーシップ型」というキーワードを使って鮮やかに対比している本書は、日本と欧米(およびアジア)の雇用制度の違いをクリアに理解できる良書だと感じました。本書は、日本と欧米の雇用制度の分析とそれを踏まえた提言に大きく分かれていますが、分析の部分を著者の言葉で要約すると以下のようになります。

そのポイントをごくかいつまんで述べれば、まず第一に、仕事に人をはりつける欧米のジョブ型労働者会ではスキルの乏しい若者に雇用問題が集中するのに対して、人に仕事をはりつける日本のメンバーシップ型労働者会では若者雇用問題はほとんど存在しなかったこと、第二に、しかし、1990年代以降「正社員」の枠が縮小する中でそこから排除された若者に矛盾が集中し、彼らが年長フリーターとなりつつあった2000年代半ばになってようやく若者雇用政策が始まったこと、第三に、近年には正社員になれた若者にもブラック企業現象という形で矛盾が拡大しつつあること、となります。(P.4)

以下、私が印象に残った箇所をまとめてみたいと思います。

仕事に人がはりつく欧米のジョブ型社会

欧米の雇用に対する考え方を著者は「ジョブ型社会」と表現します。ジョブ型はスキルのない若者に厳しく、スキルのあるシニア従業員(年齢ではなく仕事に紐づいた報酬より熟練度が勝っている従業員)に優しい仕組みです。

(基本的な考え方)
ジョブ型社会では、仕事に人がはりつきます。必要な仕事を先に明確に定め、その仕事ができる人を仕事に当てはめていきます。

(仕事に対する考え方)
職務範囲はそれぞれの仕事やポジションに大して明確に定義され、職業が確立されています。それぞれの職務ごとに会社が従業員に期待する働く時間や働く場所は決まっており、従業員もそれを理解し応じます。職務範囲が明確なので、「その仕事は私の仕事ではありません」と従業員が主張することが成り立ちます。

(報酬制度)
職務給が基本です。仕事に報酬が連動しており、年齢や家庭の事情は関係ありません。

(採用の考え方)
欠員補充による採用が基本で、社内に欠員を補充できる人材がいない場合に社外から採用がされます。「何の仕事ができるか」というスキルと経験のシグナルを求職者は掲げ、企業が職務にマッチングし採用します。新卒でも、ポジションに相応しいスキルが求められます。「何もわかりませんが能力はあるので採ってください」という発想は認められません。能力に差がない限り年齢などによる採用時の差別は許されません。

(異動や解雇に対する考え方)
欠員のない限り社内で異動はありません。解雇を行う場合には勤務期間の長い従業員が優遇され解雇されにくくなります(セニョリティ(先任権)、勤務期間の短い従業員から解雇されます)。定期異動はありません。欠員の無い限り人が動かないので、定期的に大規模に人を動かす理由がないからです。

(育成の考え方)
採用時の入口では学校教育と職業訓練による企業外育成が基本です(採用後に従業員にさまざまな教育機会はもちろんあります)。企業外での訓練(学校教育や職業訓練)はスキルを身につけ仕事を得るため必要なトレーニングのため、公的負担(公費負担や奨学金)の比率が高くなります。入社後の従業員について、ジョブローテーションで育成するという発想は、一部の幹部候補社員を除いてありません。

日本は人に仕事をはりつけるメンバーシップ型社会

人に仕事をあてがう日本の仕組みを著者は「メンバーシップ型」と表現します。何もトレーニングをしていなくてもジョブ型に比べると就職しやすいため若者に優しく、しかしいったんメンバーシップを得る機会から外れてしまった若者(非正規社員やフリーター)に厳しい仕組みです。また、企業が定年まで従業員を抱えることが経済的に難しくなり「解雇」される可能性のある現代においては、「仕事の熟練度より年齢に紐づいた給料が高く割高になってしまった」シニア社員にも、実は厳しい制度です。

(基本的な考え方)
人に仕事をはりつけます。コミュニティの人を中心に管理し、人と仕事の結びつきはできるだけ自由に変えられるように柔軟性を求めます。

(仕事に対する考え方)
職務範囲に曖昧さがあります。働く時間や空間は無限定です(必要なら残業も転勤も拒否できない)。極端に表現すると、「その仕事は私の仕事ではありません」という概念はありません。必要な仕事で、その従業員ができることであれば、ポジションに関係なくやらなければならないかもしれません。

(報酬制度)
職能給が重視されます。職能給は「職務遂行能力」に基づく給料で、仕事ではなく従業員の能力が重視されます。実際に能力を測るのは難しいため、従来の日本企業では年功が重視されました。定期昇給は、この能力に給料が連動しており能力を年功で測るという発想と、年齢に応じた家庭の事情(結婚や子供の養育など)を考慮しているところから来ています。セニョリティを(欧米のように解雇の順番ではなく)賃金決定に利用していると言えます。

(採用の考え方)
新卒を定期採用します。「担当する可能性のあるさまざまな仕事に対応する潜在能力がどれだけあるか」が大事なため、地頭の良さや人間力を重視し、企業は求職者を選別しコミュニティに受け入れます。コミュニティに入れるメンバー選定は重要なため(企業が定年まで面倒を見ることになっているため)、能力だけでなく広範な採用基準(年齢のような欧米では差別ととられう基準)も許されます。

(異動や解雇に対する考え方)
定期異動で大規模に従業員がローテーションします。解雇は原則として「ない」ということになっていました(会社が終身で面倒を見ることが、働く時間や空間の無限定といった大きな献身を従業員に求めることと引き換え条件になっていました)。定期的に新卒が入ってくるため、定期異動で人を動かす必要があります。

(育成の考え方)
OJTと定期異動(ジョブローテーション)による企業内育成が基本なので、大学や職業訓練など企業外での訓練は重視されません。企業外での訓練(特に大学教育)は仕事を得るために必要なトレーニングではなく「消費」の性格が強いため、親による学費の負担が主流になります。

なるほど、これらを対比してみると、ジョブ型とメンバーシップ型というそれぞれの枠組みの中で、それぞれの制度設計は合理性があるのだと気づかされます。しかし著者は、日本のメンバーシップ型は世界的には特異な例であり、かつその仕組みが働いていたのは(該当箇所が見つけられなかったのであやふやな記憶ですが)1960年代から約40年間、かつそのメリットをフルに享受できた(本当の意味で制度がワークした)のはこの期間のはじめに就職した10年程度の世代だけだと指摘しています。にも関わらず、この成功体験があまりにも強いために現在の雇用の議論もメンバーシップ型の影響を強く受けていると著者は指摘しています。

なぜメンバーシップ型の雇用が日本で広がったのか

メンバーシップ型の雇用は本書によると1960年代ー70年代から広まったそうです。その理由の一つとして本書は次のように述べています。

今一つの理由は、1960年代に急速に進んだ新規中卒者の激減と、高校進学率の急増が、中卒=ブルーカラー、高卒=ホワイトカラーという学歴と職務の対応関係を崩壊、混乱させ、新規高卒者のブルーカラー職への採用が増大したことです。


従来は中卒者が就いていたブルーカラー職に就かざるを得なくなった高卒者の葛藤や不満を解消するために、企業内部の職務の区分をあいまいにし、ホワイトカラー、ブルーカラー間の柔軟な異動を可能にする人事管理を導入する必要があったというのです。職能給のような職務を明確にしない日本型雇用システム自体が教育の現実によってもたらされた面があるという説明です。(P.117)

著者はこれを「教育の現実」と表現していますが、会社の側から捉えれば「職務を曖昧にしたい人事管理」のニーズと言えると思います。著者は中卒と高卒のブルーカラー採用についての事例を引いていますが、現在の大卒採用に当てはめれば職種を限定せずに花形職種を見せて実際にはどこに配属されるかわからない採用として続いていると言えるでしょう。

一元能力主義もメンバーシップ型採用の弊害

企業はOJTで人を育てるので学校での教育は重視されません。その結果が、偏差値に代表される学校教育と社会を貫く一元的能力主義であると著者は述べています。

こうして生み出されたのが、学校教育と社会を貫く一元的能力主義です。


これは首都大学東京の乾彰夫氏の言葉ですが、この科目はできるけれどもあの科目は苦手だからこういう進路を目指そうという多様性を前提にした発想ではなく、とにかく全教科まとめてこれくらい勉強ができるから、あるいはできないからこういう進路をとるべき、とらざるを得ない、という発想です。


それを象徴するのが、1970年代に教育界に広まった偏差値です。(P.119)

メンバーシップ型が地頭の良さや人間力のみを重視する一元能力主義に結びついているという主張に同意します。本書では述べられていませんが、ではジョブ型では一元能力主義にならないかというと必ずしもそうでもありません。欧米でホワイトカラーに人気のあるプロフェッショナルファームや大企業のリーダーシッププログラムは強く学歴主義で、トップ校は卒業するよりも入学するのが大変ですから、日本とそんなに変わりません(大学の選抜の方法は違いますが)。また、その時点のスキルよりも能力のある人材を採用する方が長期的に伸びる可能性があるというのは一面の真理でもあり、スキルと能力をどのように採用において評価するかは答えのない難しい問題です。

本書の最後に、「そもそも日本は幹部候補の可能性のある総合職の人数が、欧米に比べると明らかに多い」という意見が出てきまが、ビジネススクールで他のMBA学生を見ている経験から、直感的には欧米も少数の幹部候補生には一元能力主義で臨んでいると言えるかもしれません。そうすると、問題は一元能力主義ではなく一元能力主義の適用対象が日本では広すぎること、かもしれません。その結果として、日本の大企業は不要に優秀な人材を囲い込んでいるような気もします。

いずれにせよ、教育と採用は強く結びついており、教育の議論だけをしても、採用の議論だけをしても、片手落ちであることは間違いありません。どちらか一方「だけ」を変えても、うまくいかないのですね。

(余談ですが、日本では職務に大してクオリティの高すぎる人材を配置しているのではないかと感じたのは、一時帰国して日本の銀行と携帯電話会社に行った時です。アメリカの銀行や携帯電話会社のオペレーションはレベルが高くありません。一方で日本の銀行や携帯電話会社のオペレーションは異常にレベルが高いです。もちろん、アメリカのオペレーションははじめはとてもストレスなのですが、クリティカルにそれで問題があるかというとそうでもありません。もしもアメリカのオペレーションの質が「十分」と言えるのであれば、日本の銀行や携帯電話会社は窓口に過剰に質の高い人材を配置していることになります。その人たちは、本当は他の仕事をした方が、社会により大きな価値を生み出すことができるかもしれません)

採用で人間力が重視されて起きていること

人間力は、メンバーシップ型採用においては昔から見られていたそうですが、昔は雇用の絶対数が多かったのでそれほど大きな問題にはならなかったようです(企業が採用時点の人間力にはこだわりが薄かった)。しかし、近年は企業が採用を絞るようになり、人間力が採用の段階で学生に求められるようになり、最近の就職活動では非常に滑稽なことが起きていると著者は言います。

そう、「いかなる職務をも遂行しうる潜在能力」であり、「人間力」です。そして、前述したように、90年代以降、「社員」の範囲が縮小していき、それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が、それによって「社員」の世界に入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってくると、そういう「人間力」を身につけるための教育がキャリア教育として行われるということになっていきます。


一言で言えば、就活の場で企業にいい印象を持ってもらうことができるためのスキルを身につける教育です。


しかしながら、所詮OJTで長期にわたって観察するのではない以上、就活時点で示される「人間力」など大したものになるはずはありません。コミュニケーション能力だの、積極性だの、協調性だの、強調すればするほど、本の題名ではありませんが『就活のバカヤロー 企業・大学・学生が演じる茶番劇』(石渡嶺司・大沢仁著、光文社新書)といいたくなるでしょう。


しかし、それはまだ「社員」になったら否応なく必要になる能力なのだからやむを得ないと考えることもできます。もっと奇妙なのは、「社員」になった後にはもはや何の意味もなくなるのにもかかわらず、近年の就活ではあたかももっとも重要なポイントであるかのごとく強調されている「自己分析」なるものです。


具体的な職業もそれに必要な資格・能力も意識されないまま、心理学の装いで行われる就活としての「自己分析」「自己評価」というものほど、全くあいまいで「入社」という観点からさえ何の根拠も見出せないものはありませんが、就活スキルが自己目的化した究極の姿として、社会学的分析の素材としては興味深いものかもしれません。(P.136)

この主張に、私は強く同意したいです。面接で見られることには限りがあるし、仕事を経験せずに自己分析で自分を強く規定するのも考えものです。企業も、「面接を練習しすぎた学生」には本音では困っているようですし。

自分は、ある商社の面接を今でも覚えています。そこで、面接官から私は「君は、営業、企画、調査、どれができると思う?」と聞かれ、私は少し考えた後に「うーん、どれもできると思います」と答えました。理由説明は思い浮かばなかったので、根拠は特に示しませんでした。その時の面接官は、何やら渋い反応で、私は不合格になりました(苦笑)。しかし、実際に私は20代で営業も企画や調査に近いアドバイザーもしっかりとこなして来たので、あの時の自分の返答は(面接的に説得力はなかったでしょうが)嘘ではなかったわけです。かつ、そこで私が「企画ができます!企画がやりたいです!」と言っても、商社は私を企画に配属してくれるわけでもないでしょう。すると、あの質問はなんだったのかなと今でも思います。別に面接官とその会社に恨みはありませんが、面接という手法に対する私の本質的な疑いは就職活動の経験から来ているように思います。

若者雇用に対する対応策は職業訓練しかない

若者雇用に対する著者の主張は明快です。

実は石油危機以来、若者雇用問題に対するまともな答えはたった一つしかありません。「企業に採用してもさしあたっては何の役にも立たないような、職業経験も知識も何も持たないような」若者に対して、彼らに賭けている技能を身につけさせること、具体的には彼らに職業訓練を施して、場合によっては何らかの形で実際に企業現場の作業を経験させて、企業に採用してから何かの役に立つような職業上のスキルを身につけさせること、これに尽きます。各国とも、いろいろと若者向けの雇用政策を試みたあげくに、結局若者雇用政策に王道なし、職業教育訓練によって技能を身につけ、採用されやすくなる以外にうまいやり方はない、ということを学んだのです。(P.169)

欧米では、いろいろな若者雇用政策が試されそうですが、結局ちゃんと若者を鍛えるしかないという結論に至ったそうです。特に、ドイツのデュアルシステムという考え方が本書では細かめに触れられていました。

以上、本書の興味深かったポイントと私見を書き綴ってみました。メンバーシップ型が企業のエコノミクスから見てどのような価値があったのか、について本書は分析が薄いのが残念ですが、著者は労働法の専門家のようなのでその点はやむを得ません。日本の雇用システムのこれまでについて歴史的な経緯も含めてしっかりと理解しこれからを展望したい方に、本書はお勧めです。