コンテクストを理解することの重要性

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Original: Morten Diesen/Flickr

すでに授業が終わって久しいですが、Business Policyで扱った二本のビデオについて触れてみたいと思います。いずれも、コンテクストを理解することの重要性を示す内容です。

レニ・リーフェンシュタールの民族の祭典

一本目は、レニ・リーフェンシュタールへのインタビュー。彼女は、ナチスのプロパガンダとして有名な民族の祭典を監督し、第二次世界大戦後はナチスの協力者と看做されたため、その才能に関わらず映画の仕事を続けることができませんでした。

彼女はインタビューの中で、以下の点を強調していました。

  • 自分は、ナチスの思想に共感したことはなく、党員となったこともない。
  • 自分は芸術として民族の祭典を作った。プロパガンダの意図はない。
  • 当時は、ナチスの負の部分は明らかになっておらず、多くのドイツ人がナチスを支持していた。ナチスは題材となったベルリンオリンピックを平和の祭典として宣伝し、自分もそれを信じていた。
  • 自分だけでなく、多くの人が当時は民族の祭典を芸術としてみたいた。フランスが映画賞を与えてくれたことがその何よりの証拠だ。
  • 自分は芸術にだけ関心があり、芸術と政治は関係がない。

これらの彼女の発言から、映画を撮ることができなかった戦後のリーフェンシュタールの境遇について皆さんはどのようにお考えになりますか。

私が知っている情報はこれだけですが、私は彼女が映画を撮ることができなかったのは西側諸国によるコンテクストの理解の不足だと考えます。何よりも、民族の祭典が当時フランスで映画賞を得ていたという事実がひっかかります。同時代の(後の)連合国の人たちが賞を与えていたにも関わらず、後からあの映画はプロパガンダで撮った監督はナチスの協力者だと断罪するのは、当時の自分たちのことを棚にあげた後講釈に私には感じられます。

ただ、芸術と政治は全く関係がない(芸術はそれが政治にどのような影響を及ぼすかを考える必要はない)と強く断言するリーフェンシュタールの様子にも強い違和感を感じました。自己弁護のためにそのような考えに至ったのかもしれませんが、それは自分の生み出したものにたいしてあまりにも無責任な言い方で、その考え方そのものには同意できません。作品による政治的結果が明らかなのであれば、芸術家は良心に照らしてその結果を自分が良しとするか判断する責務を負うと思います。授業でも、「この考え方は芸術に対する古い考え方」と断じている芸術関係に携わっていたクラスメイトがいました。自分の立場を弁護するための議論としても、「そもそも芸術と政治は関係ない」と責任逃れを主張するのは彼女の立場を弱くするうまくない議論であり、この主張をあらゆる場で貫いていたのであればその主張のために映画を撮ることができなかったのかもしれません。

私は以上のように考えますが、授業でもいろいろな意見が出たトピックでした。時代背景というコンテクストを踏まえて、後世が当時の芸術家の行動をどのように判断するか。コンテクストを踏まえることの難しさを感じさせられます。

ベトナム戦争を指揮したマクナマラ

さて、もう一つの例はベトナム戦争を国防長官として指揮したマクナマラドキュメンタリーです。ベトナム戦争はアメリカにとっては大失敗であり、ベトナムにとってはおびただしい数の死者を出した悲劇でした。

マクナマラをはじめアメリカは、この戦争を冷戦の一部、つまり西側と東側の戦争として捉えていました。しかし、戦後、ベトナムを訪れたマクナマラは、ベトナムの高官から以下のように強く批判されます。

ベトナムはあの戦争で340万人の死者を出しました。アメリカの人口に換算すれば2700万人です。それだけの死者を出して、あなたたちはいったい何を得たというのですか。はじめに私たちが提示した条件から、何一つ得られなかったではないですか

「あなたは、ベトナムの歴史書を読みましたか。ベトナムにとって、あの戦争は独立戦争です。私たちは、1000年にわたって中国から独立するために戦ってきたのです。誰も、私たちを止めることはできません」

これは、議論のあるリーフェンシュタールの例と異なり、明らかにアメリカがベトナムにとっての戦争のコンテクストを理解できていなかった話だと思います。アメリカがコンテクストを正確に理解できていれば、異なる歴史があったかもしれません。

成熟とは、相手のコンテクストを理解できるようになること

思い返してみると、私が新人時代に営業マンとして教わった一番大事なことは、相手のコンテクストを理解することであり、また私が大学時代に政治思想を好んだのは自らが属する日本というコンテクストを深く理解したいという意欲の表れだったのかもしれません。コンテクストという言葉はいろいろな意味を含んでいるので、一言で言い換えるのが難しいのですが、留学を経てコンテストとは文脈とPersonal Philosophyに整理できるのかなと考えるようになりました。文脈とは、国が相手なら歴史、会社が相手なら会社の市場における立ち位置や会社の成り立ち、ビジネスマンが相手なら相手が会社で置かれている立場でしょうか。一人の人間としては、その人のそれまでの人生そのものや周囲の人との関わり合いがその人の文脈を作ります。相手が置かれている環境、そして相手が物事をどう捉えるか、この二つが掛け合わさってコンテクストになるのかなと。

相手との対話を進めるためには、相手のコンテクストを理解することが第一歩です。しかし、学生として一歩引いて世界を見てみると、コンテクストに対する無理解が世の中に多いことに驚かされます。アメリカ人の外国に対する態度を例にとれば、アメリカ人は「外国を理解することに関心のある人」と「外国に全く関心がなくすべてをアメリカの文脈で見る人」にスパッと分かれます。私にとって、後者の人とコミュニケーションがとりにくいことは言うまでもありません。

異なる立場の二者がいた場合、コンテクストが一致することはありません。しかし、相手のコンテクストを理解することで、相手の考えや行動の理由を知り理解を深めることはできます。そして、相手のコンテクストを理解する姿勢を持ち努力することは、成熟した大人と言われるためのひとつの条件なのではないでしょうか。