ハーバードとシカゴのMBAの教え方は、どこが違ってどこが同じなのか

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Max Beckmann / Museum of Fine Arts Boston

左の男性「ハーバードとシカゴの授業はどう違うんだい。フフン」
中央の女性「あら、世界に冠たるハーバードの授業には秘密がいっぱいよ」
右の男性その1「そのお題、ちょっとマニアックすぎないかい。みんな興味ないよ」
右の男性その2「俺もそう思うな」

ハーバードを訪問する

先日、ハーバードに在籍する友人にサポートしてもらい(対応をして下さった皆さん、有り難うございました!)、ハーバードの授業を見学させてもらいました。ハーバードの授業が他のビジネススクールの授業(私が良く知っているシカゴの授業)とどのように違うのか(あるいは違わないのか)、実際にこの目で確かめてみたかったのがモチベーションです。世界中のビジネススクールではケース(事例)を用いたディスカッションが授業に多く取り入れられていますが、その多くのケースはハーバードの教授陣(実際にはリサーチアシスタント)により作成されています。そして、ハーバードはその授業が厳しいことでも有名。ぶっちゃけ、シカゴの授業でのケースの使い方とハーバードの授業でのケースの使い方は違うんじゃないか?何か、ハーバードはやっぱり凄いことやってるんじゃないか?これは、ビジネス教育に興味を持つ私として、是非とも確かめておきたいトピックだったのです。

なお、はじめに謝罪させていただきたいのですが、この記事では「そもそもMBAでは何をやっていて」「ケースディスカッションってどんなもの」というところは省きますので、(世の中のほとんどの人である)MBA未経験者にはわかりにくいと思います。ごめんなさい。(ですので、訪れたボストン美術館のMax Beckmannの絵に、「マニアックすぎない?」と冒頭で語ってもらいました。ボストンでは、ボストン美術館を訪れよう!)

ハーバードとシカゴのカリキュラムの違い

ハーバードとシカゴは、水と油ぐらいカリキュラムの思想が真逆の学校です。おそらく、他のいずれのビジネススクールのカリキュラムもこの二校の間に並べることが出来るでしょう。簡単に比べてみると、以下のようになります。

ハーバードのカリキュラム

  • 1年生はコアが決まっており、決められた授業を固定のクラスで受ける
  • 授業はほぼすべてケースディスカッション
  • ディスカッションへの参加が成績の大きなウェイトを占める
  • 1年生の間は授業の準備としてグループワークがある(1年生の前半はグループ指定、後半は自分たちで組む)。2年生になるとグループワークは激減する
  • 1年目は週あたり12本〜15本ぐらいケースをやる。ケースを分析する上で参考になるフレームワークなどを学ぶために、ハーバード作成の「サイドノート」が付いてくることもある
  • FIELDというカリキュラムがあり、1モジュール目ではリーダーシップ開発、2モジュール目では新興国でのコンサルティングプロジェクト、3モジュール目では起業体験を行う

シカゴのカリキュラム

  • (ざっくり言うと)オリエンテーション以外、1年生のはじめから自分で授業を選べる(オリエンテーション以外固定のクラスはない)
  • 授業の進め方は、トピックや教授によりいろいろ(ケースもあればレクチャーもある)
  • ディスカッションへの参加の成績へのウェイトは教授によりまちまち(ハーバード並みにウェイトの高い授業もあるが、多くの授業ではウェイトは高くない)
  • 授業の(感覚的には)9割でグループワークが求められる。授業ごとに自分でグループを組む
  • ケースは3本〜6本ぐらい。ケースについて事前に議論するだけでなく、レポートや宿題を求められる授業が多い。ハーバードのサイドノートを配る授業もあるが、研究論文や様々な課題図書を指定されることの方が多い。
  • オリエンテーションでリーダーシップ開発をやる。コンサルティングプロジェクトや起業体験は、選択授業やクラブ活動(1年生のはじめから履修することも可能)

カリキュラム全体の印象は?

カリキュラム全体の印象としては、ハーバードの一年目は噂に違わずしんどいなというのが率直な感想です。週当たり十何本もケースをやるのは、かなり時間を使うなと。それに加えて、FIELDやリクルーティングもあるのですから、ハーバードの学生はよく勉強するというのは本当だと思います。シカゴでも、それぐらい勉強する人はいますが、全員に強制されているわけではないのでそこまでカリキュラムの負担は重くないですね。

ひとつ、カリキュラムやサポート体制で印象的だったのは、ハーバードにはレポートの書き方などをサポートしてくれるスタッフがいるそうです。シカゴでも、教授もTAも親切に対応してくれますが、英語の面倒を見てくれるスタッフはいないので、そこはうらやましいと思いました。

また、二年目になるとケース準備のためのグループワークはかなり減るという話は少し以外でした。確かに、慣れてくればケースの準備は一人でできますからね。

授業内容の比較

さて、本題の授業の比較ですが、私は1年生の授業を2つ、2年生の授業を2つ見学させてもらいました。ハーバードの特徴が出ていたのは1年生の授業(The Entrepreneurial ManagerとStrategy)だったので、こちらについて感じたことを触れてみたいと思います。

The Entrepreneurial Manager

トピックは、あるスタートアップの資金調達の選択肢について。教授が、君ならどうする?と早速生徒を指名(コールドコール)します。生徒が意見を述べますが、わずか30秒。え?それだけ?それって意見じゃなくて感想レベルじゃない?意見を厳しく求められる有名なコールドコールに期待していたのですが、少し拍子抜けです。その後、手がバババっと挙がって皆が議論をしはじめます。議論があっちに行ったりこっちに行ったりしつつ、教授がうまく意見をハンドリングし、ほとんど学生に喋らせ、最後は教授が教えたいポイントに話を持ってくる、というわけで80分の授業が終了。

Strategy

トピックは、中古車販売の会社の戦略について。教授が生徒をバシバシ当てていき、まずは業界の構造、次に会社のポジショニング、そして会社の今後についてと議論を進めて行きます。たまに業界に知見のある人が経験から意見を述べたりしますが、基本的に教授の質問に単発で学生が答えることの繰返しで授業が進行し、教授が業界の特徴について改めて議論の結論を説明して80分が終了。

ケースディスカッションの限界

ハーバードの授業で目に付くのは、教授のエネルギーレベルが高く、生徒に質問を多くするところです。学生へのプレッシャーは大きく、このエネルギーレベルの高さをMBA受験生が見学して他の学校と比べると、「ハーバードの授業は他とちょっと違うなあ」という感想になると思います。

しかし、私は本質的にはハーバードもシカゴも授業の到達点は同じで、「あるトピックについて見方と意見を養う」ところにあると感じました。ハーバードの場合はそれがケースを重視した教育法であり、シカゴは理論を重視した教育法です(こう書くとシカゴって全部レクチャーなのと勘違いする人がいるのですが、シカゴでもケースもやるしいろいろと体験型の授業もあります、念のため)。

では、ハーバードのケースを重視した教育法はどの程度教育法として有効でしょうか?ケースには、事例を追体験することでビジネスの分析能力や判断力を養うという主眼がありますが、私は、ケースを通じたビジネス教育には、2つの欠陥があると思っています。

まず、議論のコンテクストが抜け落ちてしまうという問題です。戦略論の大家で既存のMBA教育に批判的なミンツバーグ教授が「MBAが会社を滅ぼす」で詳細に議論をしていますが、ビジネスについてのストーリーや数字が詰め込まれた20ページそこらのケースをいくら読んで議論をしても、ケースには文字にできないコンテクストが欠けており、ビジネスを本当の意味で深く理解できるようになることはないというのが(少しラディカルですが)私の意見です。

MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方

MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方

すでにシカゴで実際にケースを経験して自分はそのように思っており、ケースの生みの親であるハーバードにはそこを乗り越えるマジックがあるのかもしれないと少し期待していたのですが、そのようなマジックはないということがわかり、それはそれで私にとっては有意義でした。

唯一、ケースでその壁を乗り越える方法は、参加者が自分の「経験」をシェアすることです。ハーバードでもシカゴでも経験のシェアはありますが、少なくとも戦略やファイナンスなど、主題が決まっているトピックではその比率も低いし、「へえ」と感心する程度の情報でしかないと思います。交渉などよりヒューマンが重要なトピックで経験のシェアの比率が高ければ、ケースを用いた議論も有意義だと思いますが、私は生徒の経験のシェアだけで構成されたクラスを見たことはありません。先生に教えたいことがあってクラスが構成されており議論の対象となるケースがあるわけですから、当たり前と言えば当たり前なのですが。

二つ目の問題は、ケースの議論は、ケースの「一部」について授業中に論じることを求められることが多く、ケース全体について一貫した意見を求められないという点です。要するに、ケースの題目としては「この中古車販売業者はこれからどういう戦略をとるべきか」なんて書かれているわけですが、実際に授業では「自動車販売業界の好ましい点、競争環境は?」とか、「この会社の強みは?」とか、大きなお題目を細分化した一部について答えさせられることがほとんどです。つまり、答えやすい細かい問題にそれらしい意見を答えればそれで授業への対応としては事足りると。そんな、細かい論題にとにかく意見を述べるトレーニングをしても、口が立つようになるだけで本当にビジネスのことが深く理解できるようになるとは私は思いません。そこで、究極的には、コンテクストが欠けているとはいえ、ケースについて毎回自分でゼロから百まですべて意見を組み立てて説明を20分ぐらい求められたら教育として意味があるなと思っていたのですが、ハーバードもそこまではやっていないということがわかりました。生徒が何十人もいて授業時間は80分しかないので、物理的にできないのでしょう。

シカゴの理論や考え方を非常に重視する教え方は、これらのケースの欠点を(おそらく)踏まえてのものだと思います。100%ケースディスカッションで口だけ達者になるよりも、ケースなり論文なりを通じ、またグループで大きなトピックについてレポートを書き、物の見方の基本をじっくりと身につけた方が長い目で見たら役に立つという発想です。ただもちろん、理論でどこまで複雑なビジネスを捉えきれるのかという問題があり、究極的にはそんなことは不可能(すべてのビジネスに使える万能の思考のフレームワークは存在しない)なので、理論重視の教育にももちろん限界があります。

というわけで、いろいろと書いてきましたが、シカゴで理論重視の教育を経験してきた私にとって、ハーバードでケースディスカッションの本家を見学できたのは大変有意義でした。今回の投稿のタイトルは、ハーバードとシカゴの比較というよりも、教育としてケースディスカッションの良い点と限界という方が正確だったかもしれません。が、面倒なのでそのままにしておきます。

最後に改めて、当日対応をしてくださった多くの在校生のみなさま、有り難うございました。特に、ハーバードを批判しているわけではないので、ご容赦下さい(見学時に隣に座っていた学生に「授業を見学してHBSとChicago Boothと、どっちが良い?」と聞かれたので、「もちろんChicagoだよ」と答えましたけど(笑))。

Risk Taker. Visionary.

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Original: Mohammad Jangda/Flicker

「自分の人生の戦略を考える」授業

今学期、大学でDavis教授のBusiness Policyという授業を履修しています。何の授業かと聞かれると説明しにくいのですが、自分の強みや弱み、リーダーシップのスタイル、関心などを理解して、「自分の人生の戦略」を考えよう、という授業でしょうか。教授の研究対象は、リーダーシップ、戦略、クリエイティビティといったエリアなのですが、シカゴ大学で50年以上教鞭をとり、読書量も半端ではない教授は、人生経験が豊富すぎて教授の語りだけで授業が含蓄に溢れているという、彼でなければできないスタイルで授業が進んでいきます。

Risk Taker vs. Observer

さて、先日彼の授業で、ふたつの異なる役目になりきってクラスメイトと簡単なロールプレイングをしてみるというエクササイズがありました。最初のロールプレイングは、リスクテイカーと観察者。隣に座っていたKatieと早速話しはじめます。

私「・・・ロールプレイングでリスクテイカーになりきるって、どうしたらいいと思う?」
Katie「そうね、よくわからないね」
私「(隣のSteveに)Steve、僕らは何をしたらいいんだい?」
Steve「ノーアイディアだ!」

というわけで、私と隣に座っていた二人ともわりとおとなしい性格だったため、リスクテイカーのロールプレイングはいまいち盛り上がらず、僕らはリスクテイカーと観察者について特徴を話し合うことにしました。

Katieと話をして私が学んだのは、リスクテイカーと観察者は喜びのツボが違うということです。観察者は、周囲で何が起こっているのかを深く理解することに喜びを見出します。会議で、Aさんは本当はこの提案に不満なんだろうな、とか、Bさんは興味がなさそうだな、とか、そうやってまわりを観察することに喜びを見出しやすいです。

一方で、リスクテイカーは何かを達成することに喜びを見出します。当たり前ですが、リスクをとるためには、リスクをとって何か実行したいことがあるということです。つまり、リスクテイカーになるには先に実行したい目標や欲がなければなりません。ロールプレイングでリスクテイカーを演じてみてと言われた時にうまく演じられなかったのは、何よりも目標や欲が思いつかなかったということが大きかったと思います。

どちらも、気づいてみると「確かにそうかもね」ということだと思います。しかし、「リスクをとって行動するには先に成し遂げたい何かが必要」だということは、よくよく考えてみると大事な意味があるように思います。自分が働いていた時に、どれだけそもそも自分に「成し遂げたいこと」があったでしょうか?

Visionary vs. Analytic One

もう一つのロールプレイングは、ビジョナリーと分析者、でした。

Katie「私は、こんな大きな家が欲しいの。友達を呼んでバーベキューのできる庭があって・・・」
私「それは実現するのにお金がどれぐらい必要なの?どうやって稼ぐの?」

こんなやり取りを繰り返していると、分析者というのはとてもイヤな人に思えてきます。ロールプレイングの後のディスカッションでは、「ビジョナリーを演じた後に分析者になると、自分の発言にイライラした」と言っている人もいました(笑)。

私がビジョナリーを演じてみて一番感じたことは、大きなことを語るのは簡単だが、自分が打ち上げていることを相手に「本当にこの人は言っていることをやりそう」と納得してもらう(convince)のはとても難しいということです。私は、「多くの人々に感動を与える世界旅行記を自分は書くんだ」というようなことを話してみたのですが、自分で話しながら「説得力ないな〜」と思ってしまいました。自分の言っていることは、夢やホラではあるかもしれないけど、実現しそうにないのです。残念ながら、Katieもあまり信じてくれなかったようです。

今、アメリカ人にビジョナリーは誰かと質問したら、イーロン・マスクの名前をあげる人はかなり多いと思います。彼は、テスラモーターズという電気自動車の会社を創業し活躍している起業家です(サンフランシスコでテスラのModel Sを見た時、私は結構感動しました)。彼は、電気自動車の会社をゼロから作るなんて無理だと言われていたところ、テスラをゼロから立ち上げて(少なくとも今のところは)かなりうまく経営しており、さらに宇宙分野でも活躍しています。何もないところから何かを人々に信じさせられる力、言葉にすると簡単ですが、多くの人が無理だろうと思うところからそれを実際にやってのけてテスラを成功させロケット開発を手がけてしまうイーロン・マスクはやっぱり凄いのだなと、たった10分のロールプレイングからそんなことを考えました。私は、世界旅行記を書くというやろうと思えばできそうなことすら、Katieを納得させられなかったのですから(涙)。

いろいろな「役割」を演じてみて、いつもの自分と違う考え方をしてみる。考え方の手法としては知っていましたが、真剣にやってみたことはこれまでありませんでした。面白そうだと感じたら、みなさんも「演じて」みてはいかがでしょうか?

Creation. Evaluation. Action.

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デザインスクールのMさんにお話を伺う

先日、シカゴにある有名なデザインスクール(IIT Institute of Design)の日本人留学生のMさんとお話をさせていただきました。彼は、留学前はコンサルティング会社で働いていたそうです。米国では、シリコンバレー界隈を中心に「デザイン」の重要性がここ数年クローズアップされており、IDEOというデザインに特化したコンサルティング会社は特に有名です(IDEOホームページに掲載されている、日本でのIDEOの活躍についてインタビューした日経の記事はこちら)。インタビューの記事でも軽く触れられていますが、ここで言うデザインは、パッケージのデザイン、というレベルの話だけではなく、ユーザーのサービスや製品経験をどのようにデザインするか(ユーザーエクスペリエンス)や、もっとおおもとに立ち返ってユーザーの問題をどのように発見しそれに対する解決のアイデアをどのように生み出すか、といった話を含みます。このように盛り上がっている米国のデザイン業界ですが、日本からビジネスバックグラウンドでデザインスクールに留学する方は少ないです。

デザインはCreation、コンサルティングはEvaluation

さて、Mさんに伺った内容の中で特に印象に残ったのが、「デザインはCreation(創造)でコンサルティングはEvaluation(評価)」というお話です。(響きがカッコいいので、以後英語で説明します(笑))

まず、Mさんによるとコンサルティング基本的にEvaluationを行う仕事であるそうです。例えば、企業が新商品の投入を市場に考えている場合、それが「戦略的かどうか」はかなりの程度Evaluationができるそうです。例えば、競合商品との関係を分析したり、市場でのポジショニングを調べてみたり、ということですね。これらのEvaluationのスキルは、MBAで学ぶ領域とかなり重複すると思います。

これに対して、デザインスクールではCreationを学ぶそうです。例として伺ったのは、地下鉄の駅にある自動販売機の話。自動販売機の売上を伸ばすための施策を考えるようにデザインコンサルティング会社が依頼された際に、彼らがしたことは、「ひたすら自動販売機で買い物をする人を観察し続けること」だったそうです。このアプローチは、IDEOのホームページにDESIRABLITY(HUMAN)(望ましさ)と書かれている、「人間中心」に解決策を考える方法であるとか。そして、彼らがクライアントに提案した内容は、「自動販売機の上に時計を置きましょう」というものだったのだそうです。え?という感じですが、自動販売機で買い物をする人がまず何をするかというと自分の持っている時計を見るらしいのです。今から買い物をして、電車に間に合うかを確認しているのですね。そこで、電車に間に合うかがパッとわかるように時計を置いたら、売上が伸びたということでした。面白いですね。

Creation. Evaluation. Action.

今、大学の授業で、ビジネスプランを考えているのですが、Mさんとは、ビジネスプランをゼロから考えるのはCreationですねという話になりました。どのような商品を、どのような市場に、どのように提供するのか。これはかなり難しくて、定石というほどの方法論もなく、創造という言葉がピッタリです。しかし、とりあえずひとつアイデアを思いついたら、そのアイデアをEvaluationすることはできます。どう見てもうまくいかなそうなアイデアと、確かにうまくやれば成功しそうなアイデア、これは分析したり比較したりすることでそれなりにわかるのかなと。(もちろん、Evaluationはしようと思えばどこまでもできてどうにでもケチをつけられるので、Evaluationは万能ではまったくありません)

もう一つ話を拡張すると、実際には最後にActionがくるのかなと思います。考えてCreationし、Evaluationしてうまくいきそうだと判断したものを実際にActionしてみる。もちろん、Evaluationに時間をかけるよりもActionを重視しフィードバックを素早く回して改善に結びつけていく考え方もあり、Creation→Evaluation→Actionと直線で並ぶものではありませんし、Evaluationのプロセスの中でも評価の切り口を考える際には創造性が求められることもあるのですべてのプロセスがこの3つに綺麗に分けられるわけでもありませんが、仕事がCreation、Evaluation、Actionの3つに分けられると考えるのは物の捉え方としてそれなりに真実を突いているのではないかなと思いました。

Creation、Evaluation、Actionのバランス

もうひとつここから考えたのは、仕事によって求められるこの3つの程度は異なるだろうなということです。例えば、私が経験した法人営業は、普段は「少しのCreation、それなりのEvaluation、高いAction」が求められる仕事なのかなと。状況判断は正確にしないといけないので、それなりに評価は必要ですが、営業なのでとにかく実行しないと始まらない。ただこのバランスは、例えばライバルに負けそうな厳しい状況だと、「かなりのCreation、それなりのEvaluation、とても高いAction」に変化するのかなとも思います。逆転をするためにはたいがいアイデアが必要(それは、顧客と会話をする時のちょっとした工夫かもしれないし、大胆なアプローチ方法の変更かもしれない)で、それはまさに創造です。そして、考えついたアイデアが突拍子もないものだったら、行動力もかなりに必要になると。

これは、もっとルーチンな仕事だと「ゼロのCreation、ゼロのEvaluation、ひたすらAction」になるかもしれません。もしくは、定型で決まった調査レポートを書くような仕事だと、「少しのCreation、ひたすらEvaluation、たまにAction」ぐらいになるのかもしれない(笑)。

問題なのは、本当はCrationやActionが必要なのに、EvaluationばかりしてCreationやActionしたつもりになっている場合でしょうか。一生懸命、無駄な資料ばかり作っている場合がこれに当てはまるかもしれません。本当は困難な状況を打破するためにCreationとEvaluationを行ったり来たりして何か新しいやり方を捻り出さないといけないのに、とりあえず頭を使わずにひたすらActionしているような場合も、まずいですね。

いずれにせよ、Creationが大事でEvaluationはいらないといった極端な話ではなく、状況に応じて、それぞれが求められる程度が変わるということなのかと思いました。PDCA(Plan/Do/Check/Action)とはまた違う切り口で、Creation、Evaluation、Actionで仕事の進め方や状況を整理するのも、役立つのではないでしょうか。

人によって、この中のどこが好きかにも違いがあると思うので、自分のやりたいことを見つめ直す時にも、役立つかもしれませんね。Creationが大好きな人が金融機関でアナリストをやったら不幸になると思うし、Evaluationが何より好きな人は起業家には向いていないと思うので(笑)。

教育が、どこを伸ばすように設計されているか、考える際にも役立つかもしれません。日本の教育はEvaluationの力を高めるには向いているのでしょうが、やっぱりCreationとActionを伸ばすようにはできていないのでしょう。Evaluationももちろん大事ですが、今の教育はバランスが悪いので、CreationとActionの力をどうやって伸ばすか、という話になるのだと思います。

Image courtesy of Carlos Porto / FreeDigitalPhotos.net

サンフランシスコでUberに乗ってみた

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今回はキャリアや教育ではなく、テクノロジーのお話。

新しい形の「タクシー」サービス、Uber。日本にもひっそり上陸と記事になっていましたが、先日サンフランシスコを訪れた際に郊外で使ってみたので経緯と面白かったことをメモしたいと思います。

スマホで現在地と行き先を入力する

まず、乗ってみた時の話。あらかじめ、Uberアプリをダウンロードして、自分のクレジットカード番号を入力しておきます。そして、現在地をGPSで入力して行き先を入力。料金の目安が表示されます。まわりにいるUber登録車両がアプリの地図上に表示され、呼んだら何分で来てくれるかもわかるので便利。

車を呼ぶと?

車を呼ぶボタンを押すと、一台の車が反応!GPSでこちらに向かってくるのが見えるので何だかワクワクします(笑)。面白いのは、呼んだ車のドライバーの名前、顔写真、評価がこのタイミングで見えること。もしも「何かこのドライバー嫌だな〜」と思ったらここでキャンセルできるのでしょう。

車が着いたら知らせてくれるので外で待っていなくていい

車が到着するとテキストで知らせてくれるので、外で待っていなくて問題ありません。私はついついアプリの地図を見ながら外で待ってしまいましたが。

ドライバーがいきなり私の名前を呼んでくれる

近づいてきたあの車かな?と思ったら、ドライバーが窓を開いて私の名前をいきなり呼びます。なるほど、向こうにも私の名前が伝わっているわけね。というわけで、迷いなく乗車。

ドライバーはGoogleマップ道案内を使い、目的地に連れて行ってくれる

このドライバーさんはUber業をやりはじめたばかりということで、Googleマップを見ながらドライブして私の宿泊するホテルに連れて行ってくれました。決済はあらかじめ登録したクレジットカードでなされるので、無事着きいたOKボタンと、ドライバーの評価を入力して、下車。タクシーとは違いチップはなしです。

1回乗ってみただけで、タクシーと違うことがいくつか感じられました。

タクシーと顧客のマッチングが効率的

流しを拾うとか(私がいた郊外には流しのタクシーは皆無でした)、電話で呼ぶよりも、アプリでタクシーも自分も場所がクリアで最寄りのタクシーを自動マッチングで呼んでもらえる方が圧倒的に効率的。最寄りのタクシーが来るのに何分かかるよと呼ぶ段階ではっきりしているのもいいですね。タクシー側からしても、流すより効率よく顧客を拾えるでしょう。

ドライバー個人に評価がつき顧客はドライバーを選択できる

個人的にタクシーの最大の問題と思っていたのは、ドライバーのレーティングを選択できないこと。アメリカで極端にひどいドライバーに当たったことはありませんが、日本だととにかくしゃべり好きのイマイチなドライバーがたまにいました。タクシーでそういうドライバーに当たってしまうのは、タクシードライバーと顧客は一期一会で、ドライバーの評価ができないからです。Tripadvisor前の海外旅行のホテルと同じです。でも、Uberは個人に評価ができるので競争原理が働きます。これは、努力をするドライバーにも、選ぶ乗客にも、良い仕組みだと思いました。

タクシーを拾う場合にはもうひとつ、「そのドライバーが本当に信頼できるか?」という点も事前に気になったりします(新興国ではセキュリティ面からクリティカル)。そういった面も含めて、Uberだと個人のレーティングができるので解決しやすいかもしれません。

ドライバーに親近感がわく

顔も名前も事前にアプリで確認できるので、ドライバーに何となく親近感が湧きます。乗車中にいろいろと話し、下車時には握手して降りてきました(笑)。

Uberは副業しやすい

「あなたはUberフルタイム?」「これは副業。昼間は別にフルタイムの仕事をしているよ」なるほど、Uberは副業にも使えるのですね。Googleマップでナビがあれば別に道にもの凄く詳しくなくても大丈夫と。

個人の車に乗せてもらうのは、タクシーに乗せてもらうより何となく嬉しい

「この車はあなたの車ですか?」「いや、妻のなんだ。自分の車は汚くてお客さんを乗せられないよ」何となく、個人の車に乗せてもらうのはタクシーに乗るよりも嬉しいです。お金を払ってはいるんだけど、相手と少しプライベートな関係になれた感じ?

既存のタクシーの仕組みをリプレイスできる新しい仕組み

タクシーはどこの国でも免許制で総量規制があることが多いと認識しています。例えば、ニューヨークのタクシー免許は希少価値が高くて価値が高いとか。

しかし、タクシーが免許制で総量規制に依っている背景を経済学的に考えると、1)乗客の側からすると情報の非対称性が高く、免許がなければ安全が担保できない(素性のわからない車には乗りたくない)、2)タクシーの側からするとドライバーによる差別化(情報の非対称性)や効率化(どこに乗客がいるかわからない)が難しいので、総量規制して価格を維持してもらわないと稼げない、ということなのかなあと。Uberのような仕組みはこの両方の問題を解決できるので、とにかく大量に需要のある場所(空港や大型駅など)に流しは残るものの、他はこのような配車システムに置き換えるのが合理的なような気がします。

個人の車をパートタイムで使えるというのもサンフランシスコで実際に使ってみて感じた面白い発想で、特に田舎でずっと駅前に同じ車が待っていたり、あるいは夜には車が一台も走っていなかったりというのはドライバーにも乗客にも良いことがないですから、そういう無駄が多いところでは個人の車+パートタイムというリソースの再配分も社会的問題解決の一つの有効な選択肢になりそうです。

業界の競争ということで言うと、短期的には複数の配車プラットフォーム(使ったことはありませんが、日本では日本交通タクシー配車という仕組みもあると聞いたことがあります)が、傘下のタクシーのクオリティや便利さで競争し、中期的にはいくつかのドミナントなプラットフォームに収斂され、プラットフォーム間というよりはそれぞれに所属するタクシー(コンテンツ)が競争するような感じになるんでしょうか。しかし、会社のページを見ると凄い投資家ですね。。。

* Image courtesy of mapichai / FreeDigitalPhotos.net

今どきのインターンって?(Hatch『超難関インターン完全攻略本』)

超難関インターン完全攻略本

超難関インターン完全攻略本

最近の新卒のインターン事情について知りたく、日本から取り寄せた本。実際にプロセスを経験した学生がインターンの選考と内容についてまとめています。編集をしているのは現役の学生さんたちのようですが、まさかはるばるシカゴに取り寄せて読んでいる人がいるとは、執筆者たちも思っていないかもしれません。

これだけインターンが掲載されていて、実際に仕事を経験するものはほとんどない

ざっと一読してまず感じたのは、これだけ「インターン」が掲載されていて、実際に職場で仕事を経験できるものはほとんどないということです。ベンチャーを除けば、ソフトバンクぐらいでしょうか?アメリカの感覚で言えば、日本でインターンと呼ばれているもののほとんどはコンペティションかセミナーで、インターンではありません。

企業は学生の「能力」を測りたい

外資系投資銀行やコンサルティングの項を読んでみて、会社の側から繰返し出てくる言葉が「知識ではなく論理的に考えられるかを見ている」というものです。これらの業界だけではなく、どの会社でも、選考では、思考力、コミュニケーション力、協調性、性格、といったものを見ようとするでしょう。

そこで、印象に残ったのがゴールドマンサックスのインターン内容です。コメントにも「投資銀行のなかではかなり異質の内容」と書かれていますが、インターン概要はスマートフォンの新規アプリを考える、M&A提案といった内容でない理由は「経験者とそうでない者での知識の差が激しく、純粋な能力がはかれないから」とされています。

MBAインターンであれば、仕事に必要な知識を学んできて事前準備しパフォーマンスを出すのが当然ですが、少なくとも日本の新卒では知識もつけて来てね、ということは期待できないということが理解できました。

事前知識で差がつく内容でも、数日見ればその人の能力や性格は見られると思いますが、ゴールドマンは期間が1日(それはもはやインターンではないですが)なので、こういう建て付けにしているのでしょう。

学生にはエクストリームな発言が印象に残る

レポートを読んでいると、「社員の◯◯という発言が印象に残った」というフレーズがたくさん出てきます。なるほど、社員の何気ない一言に学生の会社に対する印象は大きく左右されるのだなと理解できました。

一番面白かったのは、メリルリンチ投資銀行

圧倒的なマフィア感

「いいですか〜みなさん、寝食を忘れ昼夜問わずですよ〜」がひたすら印象的。また、「我々正直一つ一つの仕事にキャリアがかかってますから」もひたすら印象的。インターン中のランチに、一度クビになって戻って来た人を出すのも印象的。もはや一言では語れないメリルリンチ、常人では即刻退場させられてしまうマフィアに近い印象を受けた。

厳しいことを伝えて学生をスクリーニングする必要があるのはわかりますが、「寝食を忘れ昼夜問わずですよ〜」と、「〜」がついて学生に伝わり、宗教のようなブランディングで良いのでしょうか(笑)。

多くの学生はインターンに「良い経験になりそう」という程度の意識で参加しているのでは

全体的に、「参加してみるとこんな内容だった」という書き方が多い印象。逆に言うと、事前に「こういうことをやる」とはっきり伝えられていて、「それを経験してみたいからやる!」という学生はあまり多くないのかなという印象を持ちました。自分が学生の時を思い返しても、そうかなとは思います。やってみないとわからないし。

エントリーシートの質問が難しい

エントリーシートの質問がやたら難しい。一番しんどいなと思ったのはP&G。(いずれも、500字から700字程度)

  • 解決したい課題や問題について、重要な関連性のある情報(データや事実など)を見出し、その課題や問題の根源をつきとめ、解決策を提案した結果、望ましい成果を挙げた経験について
  • グループのなかでリーダーシップをとって方向性を示し、グループメンバーから協力を得て優れた結果を出した経験について
  • これまでに自分が著しい結果を出した時のことについて
  • 自信の周りで起こった変化によって、いつもより柔軟になることが必要になった時の状況と、その対処方法について
  • 自分と異なる背景や経歴、または考えを持っている人々と、建設的な関係を築き上げ、よりよい結果を出した例について

P&Gが難関なのは承知していますが、これらの質問に答えるのは若手社会人でも至難だと思います。就職活動をする学生は、大変だなと。

電通はすごい

最後に余談ですが、電通の「あまり実現可能性にとらわれないように。電通だから、何でもできる」という社員の発言は凄いなと思いました。広告というインフラを支配すると、本当に何でもできるんだなと実感します。インターンの内容も「アイデアの生み出し方」や「コピーの書き方」を業界の重鎮から学ぶということで面白そうで、是非私も受けさせていただきたい!でも、「立ち食いそば屋に行きたくなるキャッチコピーを10個、30分以内」とか、こういうエントリーシート、面談に私は太刀打ちできないので、無理ですね。無い袖は振れません(笑)。

ジョブ型社会とメンバーシップ型社会(濱口 桂一郎『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす』)

日本とアメリカの働き方について、留学中にいろいろな方にお話を伺い、日本の雇用の問題は新卒採用から企業の評価育成制度まで非常に体系的な問題なのだろうなという感想を持ちました。自分が伺ってきた断片的な話を自分なりの言葉で表現したのが前日のエントリーですが、それをより専門的な知見に基づいて明確に分析されているのがこの本です。(先日入手し、今日読みました。もっと早く読みたかった)

雇用に関する本にはいくつか目を通しましたが、大学教育、新卒採用、社内育成、評価昇進、中途採用、定年と雇用に関連するトピックについて、これらのトピックの違いがシステムの違いに起因していることを、欧米の「ジョブ型」と日本の「メンバーシップ型」というキーワードを使って鮮やかに対比している本書は、日本と欧米(およびアジア)の雇用制度の違いをクリアに理解できる良書だと感じました。本書は、日本と欧米の雇用制度の分析とそれを踏まえた提言に大きく分かれていますが、分析の部分を著者の言葉で要約すると以下のようになります。

そのポイントをごくかいつまんで述べれば、まず第一に、仕事に人をはりつける欧米のジョブ型労働者会ではスキルの乏しい若者に雇用問題が集中するのに対して、人に仕事をはりつける日本のメンバーシップ型労働者会では若者雇用問題はほとんど存在しなかったこと、第二に、しかし、1990年代以降「正社員」の枠が縮小する中でそこから排除された若者に矛盾が集中し、彼らが年長フリーターとなりつつあった2000年代半ばになってようやく若者雇用政策が始まったこと、第三に、近年には正社員になれた若者にもブラック企業現象という形で矛盾が拡大しつつあること、となります。(P.4)

以下、私が印象に残った箇所をまとめてみたいと思います。

仕事に人がはりつく欧米のジョブ型社会

欧米の雇用に対する考え方を著者は「ジョブ型社会」と表現します。ジョブ型はスキルのない若者に厳しく、スキルのあるシニア従業員(年齢ではなく仕事に紐づいた報酬より熟練度が勝っている従業員)に優しい仕組みです。

(基本的な考え方)
ジョブ型社会では、仕事に人がはりつきます。必要な仕事を先に明確に定め、その仕事ができる人を仕事に当てはめていきます。

(仕事に対する考え方)
職務範囲はそれぞれの仕事やポジションに大して明確に定義され、職業が確立されています。それぞれの職務ごとに会社が従業員に期待する働く時間や働く場所は決まっており、従業員もそれを理解し応じます。職務範囲が明確なので、「その仕事は私の仕事ではありません」と従業員が主張することが成り立ちます。

(報酬制度)
職務給が基本です。仕事に報酬が連動しており、年齢や家庭の事情は関係ありません。

(採用の考え方)
欠員補充による採用が基本で、社内に欠員を補充できる人材がいない場合に社外から採用がされます。「何の仕事ができるか」というスキルと経験のシグナルを求職者は掲げ、企業が職務にマッチングし採用します。新卒でも、ポジションに相応しいスキルが求められます。「何もわかりませんが能力はあるので採ってください」という発想は認められません。能力に差がない限り年齢などによる採用時の差別は許されません。

(異動や解雇に対する考え方)
欠員のない限り社内で異動はありません。解雇を行う場合には勤務期間の長い従業員が優遇され解雇されにくくなります(セニョリティ(先任権)、勤務期間の短い従業員から解雇されます)。定期異動はありません。欠員の無い限り人が動かないので、定期的に大規模に人を動かす理由がないからです。

(育成の考え方)
採用時の入口では学校教育と職業訓練による企業外育成が基本です(採用後に従業員にさまざまな教育機会はもちろんあります)。企業外での訓練(学校教育や職業訓練)はスキルを身につけ仕事を得るため必要なトレーニングのため、公的負担(公費負担や奨学金)の比率が高くなります。入社後の従業員について、ジョブローテーションで育成するという発想は、一部の幹部候補社員を除いてありません。

日本は人に仕事をはりつけるメンバーシップ型社会

人に仕事をあてがう日本の仕組みを著者は「メンバーシップ型」と表現します。何もトレーニングをしていなくてもジョブ型に比べると就職しやすいため若者に優しく、しかしいったんメンバーシップを得る機会から外れてしまった若者(非正規社員やフリーター)に厳しい仕組みです。また、企業が定年まで従業員を抱えることが経済的に難しくなり「解雇」される可能性のある現代においては、「仕事の熟練度より年齢に紐づいた給料が高く割高になってしまった」シニア社員にも、実は厳しい制度です。

(基本的な考え方)
人に仕事をはりつけます。コミュニティの人を中心に管理し、人と仕事の結びつきはできるだけ自由に変えられるように柔軟性を求めます。

(仕事に対する考え方)
職務範囲に曖昧さがあります。働く時間や空間は無限定です(必要なら残業も転勤も拒否できない)。極端に表現すると、「その仕事は私の仕事ではありません」という概念はありません。必要な仕事で、その従業員ができることであれば、ポジションに関係なくやらなければならないかもしれません。

(報酬制度)
職能給が重視されます。職能給は「職務遂行能力」に基づく給料で、仕事ではなく従業員の能力が重視されます。実際に能力を測るのは難しいため、従来の日本企業では年功が重視されました。定期昇給は、この能力に給料が連動しており能力を年功で測るという発想と、年齢に応じた家庭の事情(結婚や子供の養育など)を考慮しているところから来ています。セニョリティを(欧米のように解雇の順番ではなく)賃金決定に利用していると言えます。

(採用の考え方)
新卒を定期採用します。「担当する可能性のあるさまざまな仕事に対応する潜在能力がどれだけあるか」が大事なため、地頭の良さや人間力を重視し、企業は求職者を選別しコミュニティに受け入れます。コミュニティに入れるメンバー選定は重要なため(企業が定年まで面倒を見ることになっているため)、能力だけでなく広範な採用基準(年齢のような欧米では差別ととられう基準)も許されます。

(異動や解雇に対する考え方)
定期異動で大規模に従業員がローテーションします。解雇は原則として「ない」ということになっていました(会社が終身で面倒を見ることが、働く時間や空間の無限定といった大きな献身を従業員に求めることと引き換え条件になっていました)。定期的に新卒が入ってくるため、定期異動で人を動かす必要があります。

(育成の考え方)
OJTと定期異動(ジョブローテーション)による企業内育成が基本なので、大学や職業訓練など企業外での訓練は重視されません。企業外での訓練(特に大学教育)は仕事を得るために必要なトレーニングではなく「消費」の性格が強いため、親による学費の負担が主流になります。

なるほど、これらを対比してみると、ジョブ型とメンバーシップ型というそれぞれの枠組みの中で、それぞれの制度設計は合理性があるのだと気づかされます。しかし著者は、日本のメンバーシップ型は世界的には特異な例であり、かつその仕組みが働いていたのは(該当箇所が見つけられなかったのであやふやな記憶ですが)1960年代から約40年間、かつそのメリットをフルに享受できた(本当の意味で制度がワークした)のはこの期間のはじめに就職した10年程度の世代だけだと指摘しています。にも関わらず、この成功体験があまりにも強いために現在の雇用の議論もメンバーシップ型の影響を強く受けていると著者は指摘しています。

なぜメンバーシップ型の雇用が日本で広がったのか

メンバーシップ型の雇用は本書によると1960年代ー70年代から広まったそうです。その理由の一つとして本書は次のように述べています。

今一つの理由は、1960年代に急速に進んだ新規中卒者の激減と、高校進学率の急増が、中卒=ブルーカラー、高卒=ホワイトカラーという学歴と職務の対応関係を崩壊、混乱させ、新規高卒者のブルーカラー職への採用が増大したことです。


従来は中卒者が就いていたブルーカラー職に就かざるを得なくなった高卒者の葛藤や不満を解消するために、企業内部の職務の区分をあいまいにし、ホワイトカラー、ブルーカラー間の柔軟な異動を可能にする人事管理を導入する必要があったというのです。職能給のような職務を明確にしない日本型雇用システム自体が教育の現実によってもたらされた面があるという説明です。(P.117)

著者はこれを「教育の現実」と表現していますが、会社の側から捉えれば「職務を曖昧にしたい人事管理」のニーズと言えると思います。著者は中卒と高卒のブルーカラー採用についての事例を引いていますが、現在の大卒採用に当てはめれば職種を限定せずに花形職種を見せて実際にはどこに配属されるかわからない採用として続いていると言えるでしょう。

一元能力主義もメンバーシップ型採用の弊害

企業はOJTで人を育てるので学校での教育は重視されません。その結果が、偏差値に代表される学校教育と社会を貫く一元的能力主義であると著者は述べています。

こうして生み出されたのが、学校教育と社会を貫く一元的能力主義です。


これは首都大学東京の乾彰夫氏の言葉ですが、この科目はできるけれどもあの科目は苦手だからこういう進路を目指そうという多様性を前提にした発想ではなく、とにかく全教科まとめてこれくらい勉強ができるから、あるいはできないからこういう進路をとるべき、とらざるを得ない、という発想です。


それを象徴するのが、1970年代に教育界に広まった偏差値です。(P.119)

メンバーシップ型が地頭の良さや人間力のみを重視する一元能力主義に結びついているという主張に同意します。本書では述べられていませんが、ではジョブ型では一元能力主義にならないかというと必ずしもそうでもありません。欧米でホワイトカラーに人気のあるプロフェッショナルファームや大企業のリーダーシッププログラムは強く学歴主義で、トップ校は卒業するよりも入学するのが大変ですから、日本とそんなに変わりません(大学の選抜の方法は違いますが)。また、その時点のスキルよりも能力のある人材を採用する方が長期的に伸びる可能性があるというのは一面の真理でもあり、スキルと能力をどのように採用において評価するかは答えのない難しい問題です。

本書の最後に、「そもそも日本は幹部候補の可能性のある総合職の人数が、欧米に比べると明らかに多い」という意見が出てきまが、ビジネススクールで他のMBA学生を見ている経験から、直感的には欧米も少数の幹部候補生には一元能力主義で臨んでいると言えるかもしれません。そうすると、問題は一元能力主義ではなく一元能力主義の適用対象が日本では広すぎること、かもしれません。その結果として、日本の大企業は不要に優秀な人材を囲い込んでいるような気もします。

いずれにせよ、教育と採用は強く結びついており、教育の議論だけをしても、採用の議論だけをしても、片手落ちであることは間違いありません。どちらか一方「だけ」を変えても、うまくいかないのですね。

(余談ですが、日本では職務に大してクオリティの高すぎる人材を配置しているのではないかと感じたのは、一時帰国して日本の銀行と携帯電話会社に行った時です。アメリカの銀行や携帯電話会社のオペレーションはレベルが高くありません。一方で日本の銀行や携帯電話会社のオペレーションは異常にレベルが高いです。もちろん、アメリカのオペレーションははじめはとてもストレスなのですが、クリティカルにそれで問題があるかというとそうでもありません。もしもアメリカのオペレーションの質が「十分」と言えるのであれば、日本の銀行や携帯電話会社は窓口に過剰に質の高い人材を配置していることになります。その人たちは、本当は他の仕事をした方が、社会により大きな価値を生み出すことができるかもしれません)

採用で人間力が重視されて起きていること

人間力は、メンバーシップ型採用においては昔から見られていたそうですが、昔は雇用の絶対数が多かったのでそれほど大きな問題にはならなかったようです(企業が採用時点の人間力にはこだわりが薄かった)。しかし、近年は企業が採用を絞るようになり、人間力が採用の段階で学生に求められるようになり、最近の就職活動では非常に滑稽なことが起きていると著者は言います。

そう、「いかなる職務をも遂行しうる潜在能力」であり、「人間力」です。そして、前述したように、90年代以降、「社員」の範囲が縮小していき、それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が、それによって「社員」の世界に入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってくると、そういう「人間力」を身につけるための教育がキャリア教育として行われるということになっていきます。


一言で言えば、就活の場で企業にいい印象を持ってもらうことができるためのスキルを身につける教育です。


しかしながら、所詮OJTで長期にわたって観察するのではない以上、就活時点で示される「人間力」など大したものになるはずはありません。コミュニケーション能力だの、積極性だの、協調性だの、強調すればするほど、本の題名ではありませんが『就活のバカヤロー 企業・大学・学生が演じる茶番劇』(石渡嶺司・大沢仁著、光文社新書)といいたくなるでしょう。


しかし、それはまだ「社員」になったら否応なく必要になる能力なのだからやむを得ないと考えることもできます。もっと奇妙なのは、「社員」になった後にはもはや何の意味もなくなるのにもかかわらず、近年の就活ではあたかももっとも重要なポイントであるかのごとく強調されている「自己分析」なるものです。


具体的な職業もそれに必要な資格・能力も意識されないまま、心理学の装いで行われる就活としての「自己分析」「自己評価」というものほど、全くあいまいで「入社」という観点からさえ何の根拠も見出せないものはありませんが、就活スキルが自己目的化した究極の姿として、社会学的分析の素材としては興味深いものかもしれません。(P.136)

この主張に、私は強く同意したいです。面接で見られることには限りがあるし、仕事を経験せずに自己分析で自分を強く規定するのも考えものです。企業も、「面接を練習しすぎた学生」には本音では困っているようですし。

自分は、ある商社の面接を今でも覚えています。そこで、面接官から私は「君は、営業、企画、調査、どれができると思う?」と聞かれ、私は少し考えた後に「うーん、どれもできると思います」と答えました。理由説明は思い浮かばなかったので、根拠は特に示しませんでした。その時の面接官は、何やら渋い反応で、私は不合格になりました(苦笑)。しかし、実際に私は20代で営業も企画や調査に近いアドバイザーもしっかりとこなして来たので、あの時の自分の返答は(面接的に説得力はなかったでしょうが)嘘ではなかったわけです。かつ、そこで私が「企画ができます!企画がやりたいです!」と言っても、商社は私を企画に配属してくれるわけでもないでしょう。すると、あの質問はなんだったのかなと今でも思います。別に面接官とその会社に恨みはありませんが、面接という手法に対する私の本質的な疑いは就職活動の経験から来ているように思います。

若者雇用に対する対応策は職業訓練しかない

若者雇用に対する著者の主張は明快です。

実は石油危機以来、若者雇用問題に対するまともな答えはたった一つしかありません。「企業に採用してもさしあたっては何の役にも立たないような、職業経験も知識も何も持たないような」若者に対して、彼らに賭けている技能を身につけさせること、具体的には彼らに職業訓練を施して、場合によっては何らかの形で実際に企業現場の作業を経験させて、企業に採用してから何かの役に立つような職業上のスキルを身につけさせること、これに尽きます。各国とも、いろいろと若者向けの雇用政策を試みたあげくに、結局若者雇用政策に王道なし、職業教育訓練によって技能を身につけ、採用されやすくなる以外にうまいやり方はない、ということを学んだのです。(P.169)

欧米では、いろいろな若者雇用政策が試されそうですが、結局ちゃんと若者を鍛えるしかないという結論に至ったそうです。特に、ドイツのデュアルシステムという考え方が本書では細かめに触れられていました。

以上、本書の興味深かったポイントと私見を書き綴ってみました。メンバーシップ型が企業のエコノミクスから見てどのような価値があったのか、について本書は分析が薄いのが残念ですが、著者は労働法の専門家のようなのでその点はやむを得ません。日本の雇用システムのこれまでについて歴史的な経緯も含めてしっかりと理解しこれからを展望したい方に、本書はお勧めです。

日本とアメリカのキャリアに対する考え方の違いを考える:半沢直樹は面白いが共感はできない

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半沢直樹の世界は欧米のキャリア観では理解が難しい

すでに時機を逃していますが、昨シーズンに日本で大ヒットしたドラマ「半沢直樹」。私も視聴しましたが、半沢直樹が銀行内外の悪い人々をギャフンと言わせていく様子は大変興味深いものでした。私の場合は、半沢に感情移入するというよりは、「こういう状況あるある」「これはいくらなんでも作りすぎでしょ」とツッコミながら楽しませていただきました。あと、香川照之は本当に芸達者だなと改めて感心したり。

ところで、このドラマを見て浮かんだ疑問のひとつは「このドラマは外資系で働く人にはどう見えるのかな?」ということです。そこで、外資系に勤務経験のある方にドラマで描かれた銀行の世界がどう見えるか聞いてみたところ、「正直、よくわかりません」とのご感想。そうですよね、日本の大企業を知る私ですら、見ながら「半沢、銀行辞めて転職するか起業すればいいのに」と何回も思いました(笑)。外資系の考え方は欧米のキャリア社会の考え方ですから、欧米の人々には半沢直樹の銀行の世界はどうも理解できないという話になりそうです。では、日本とアメリカでは雇用に対する考え方がどのように違うのでしょうか。これは、私が興味を持って様々な方にご意見を伺ってきたテーマのひとつです。この機会に、私の理解をまとめてみたいと思います。

アメリカでは新卒でもポジションに人が充当される

まずは、アメリカの就職事情から。アメリカでは、大学時代に身につけたスキルや経験をアピールし、就職活動を行います。例えば、大学時代に統計を専攻し、3年生になる前と4年生になる前のインターンではマーケティングのインターンをしたので、就職活動でもこれらの経験をアピールし定量分析が求められるマーケティングの職を探す、という具合です。企業の側にも新卒採用という概念はなく、一部の「リーダーシッププログラム(複数のジョブをローテーションして適正を見出す機会がある幹部候補のような位置づけ)」を除いて、ポジションが空いたらそこを埋めるという発想はないので、新卒で就職する時から企業は社員に即戦力としての働きを期待します。もちろん採用時から入社後のポジション(職種)は決まっており、その後はスペシャリストとして同じ職種でキャリアアップを図ることが多いです。

転職時はポジションと経験/スキルのマッチングが重視され、職種/業種の変更は難易度が高い

転職の時も同様で、空いたポジションを経験とスキルのある候補者で埋めるのが基本です。(MBAに来るような若い人に限って)アメリカで就労経験のある人に聞いた話を総合すると、転職において職種/業種を変更するのはとても大変と言います。例えば、「自分は財務をやってきたけれど、もっと顧客に近いところでマーケティングをやっぱりやってみたい」と思っても、そのチェンジはかなり難しいし、「自動車メーカーから金融機関に!」というのもやっぱり難しい。もちろん、トライしてできないことはありませんが、特に職種を変更する難易度は相当に高いようで、職種を変えたいなら仕事で成果を出して同じ会社の中で掛け合ってみるのが確度は一番高いとか。でも、それでもかなり大変なようです。

自分のキャリアを決める大事な「職種」、インターンで職種のマッチングは図られている?

でも、アメリカだと大学時代からインターンで自分の仕事に対する適正を見極めて仕事に就くのだから、日本に比べると求職者と仕事のマッチングは図られているのではないか?私は、こちらでいろいろ聞いてみる前はそう思っていました。でも、現実はそうでもないようです。私の同級生曰く。。「みんな、仕事を変えるためにMBAに来るんだよ。MBAに来るのが、前よりも良い条件で違う仕事ができる数少ないチャンスなんだ。お前だって知ってるだろう。みんな、MBA前の仕事に文句ばっかり言ってるよ」これが、アメリカの現実です。

(ただし、そうは言ってもインターンを経させる米国のやり方は新卒一発勝負の日本よりはジョブマッチングに貢献していると思います。また、インターンや希望する仕事に関連するクラブ活動に積極的に従事することが、その仕事に本当に興味がありますよというシグナリングになり、シグナリングがなければ企業は採用しないので、アメリカでは「とにかくエントリーシートをコピーして応募する」ということは起こりにくくなっています。そもそも、リクナビのような仕組みがアメリカにはありません)

日本の新卒採用は今でも就社の発想が強い

さて、日本の場合はどうでしょうか(ここでは、技術者ではなくビジネス職を取り上げます)。日本の場合は、新卒一括で限られた期間に一斉に就職活動を行います(既卒でも未就業ならば新卒と同じくくりで選考するという会社も出て来ていますが、実態はまだ新卒一括採用に近いと思われます)。日本の採用はポテンシャル採用なので、学生時代に仕事に関係するインターンや学業に取り組んだかはビジネス職ではあまり問われません。むしろ、企業に入った後にうまくやっていけるか、基本的な地頭、性格、カルチャーフィット、そして会社への熱意(辞められないように)が見られると思います。入社後の職種は選べないことが多く、入社後も辞令ひとつで様々な職種や地域(国)を転々としてジェネラリストとして働いていきます。よく言われる「就社」という言葉が、日本はまさにピッタリです。

日本でも中途採用はアメリカの発想に近くなるが、就社で育つのはジェネラリストが主流でミスマッチを起こしている

ところが、転職時には事情はアメリカに近くなります。中途採用は即戦力が求められるので、企業は募集のポジションに対してマッチした経験とスキルを持つ人を当然求めます。第二新卒までであればポテンシャルも見てもらえますが、20代の後半からはそんな甘いことは許されず、よく言われるように35歳を過ぎたらスペシャリストか「責任をとって判断ができる」管理職として実績を上げていなければ良い転職は困難です。

さて、就社によるジェネラリストの育成の結果、「自分は課長/部長ができます(しかも、大きな判断は自分ではなく上の人間がします)」というジェネラリストが量産され、企業のビジネス領域が変わった(あるいは企業が潰れた)結果それらのジェネラリストが行き場を失い、「追い出し部屋」がメディアで取り上げられるようになっています。就社は新卒で就職した会社が定年退職まで責任を持ってくれないと成り立ちませんが、会社の旬の期間は18年と言われるいまの時代、会社はそのような責任を持ってくれません。5年先のことは誰にもわからないので、誰もそのような責任を負えないという方が正確です。

私は日本型の雇用よりもアメリカ型の雇用の方がフェアだと思うが、アメリカ型の雇用がバラ色なわけでは決してない

さて、話をまとめるとアメリカは新卒就職時からポストとスキル/経験のマッチング重視、日本は新卒就職時はポテンシャル採用だが中途採用はアメリカと同じくポストとスキル/経験のマッチング重視、と言えそうです。

ちなみに、それぞれのキャリア体系において会社はどのように社員に対してガバナンスを効かせているのでしょうか。若い社員について、私の理解では、アメリカはそのポジションで身に付くスキルや経験、金銭的な見返り、そして将来のキャリアパスで報います。日本の場合は、そうですね、、半沢直樹にならえば「将来のポスト」をにんじんとしてぶら下げて、今の仕事を頑張らせるイメージでしょうか。このように書くとアメリカと日本で事情は似ているように感じられるかもしれませんが、就職を決める時点でポストが決まって入社するアメリカと、入社時点ではどこに配属されるかわからず入社後に辞令を受ける日本とでは、同じ「将来のキャリアパス」で報われるといっても意味合いが大きく違います。アメリカの場合はキャリアパスのどの入り口に立つかをある程度自分の努力でコントロールできますが、日本の場合はコントロールできない方が多数です(しかも、昔の商社のように配属先の部門で色がついてしまって行けると思った先には行けなかったり)。

さらに、就職活動そのものについて考えてみるとどうでしょう。アメリカでは、大学に入学した後のインターン、GPA、キャリア関連のクラブ活動などが就職活動において評価の対象になります。言ってみれば、アメリカでは大学入学後の本人の「努力」がある程度就職に反映される仕組みになっていると言えます。逆に、日本の場合はポテンシャル採用であるからこそ、大学での努力はあまり関係ないので、学歴と人物がとても重視されることになります。つまり、日本は大学入学後の努力が就職に反映されにくい仕組みと言えます。

アメリカと日本、どちらがよりフェアな就職事情でしょうか。私は、アメリカの方がフェアだと思います。理由は、アメリカでは大学での努力が就職に反映される余地があり、また就職後のキャリアを就職時点で努力によりある程度求職者がコントロールすることが可能だからです。日本の就職事情を極端に表現すれば、まだ世の中のことをよく知る機会の少ない高校生が受ける大学入試が就職に大きく影響し、かつ就職後のキャリアにも自分の意思を直接反映するのはかなり難しい仕組みになっていると言えます。もちろん、アメリカの大学や企業社会がバラ色で理想的ということはありません。アメリカは日本以上に人脈と学歴がモノを言う社会であり、一定以上の大学に入らなければ努力をして自分の希望するキャリアを手に入れようという選択肢は得られません。さらに、人事よりも現場の上司の力が強いアメリカの会社では「上司にゴマをすると昇進しやすい」という話は至って普通で、ネットワークという競争は日本よりも余程熾烈です(余談ですが、英語はストレートな表現なのでアメリカ人は率直に意見を言い合う、という話は私の知る限りウソです。確かに、静かにしているよりは発言して自己アピールすることが大事という価値観があるのは確かです。しかし、特に企業社会においては、アメリカ人は「立場」を重んじとても迂遠な意見表面します。フラットな立場であればかなり率直にズバズバ意見を戦わせるのは確かですが、それは日本も同じでしょう)。しかしトータルで見た場合、アメリカのシステムの方が求職者や社員の立場から見るとまだ努力が反映されやすいフェアな仕組みになっているように私には思えます。

雇用システムは、コミュニティ、企業、社会に対する考え方なども複雑に絡み合うため、単純にコピーできるものではなく、システムに最適解があるわけではありません。ただし、変化のスピードが早い今日において、アメリカ型の流動的な雇用システムが一定のアドバンテージを有していることは明確だと思われます。

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